昭和43年12月23日 朝の御理解
天地書附
「生神金光大神、天地金乃神一心に願、おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい。」
いわゆるお道の信心の中心でありお題目であります。私は今日分からせられた事は信心がですね。いわゆる正面きってのものでなからなならん事。正面からぶつからないと信心が分からん。裏から横から見たんでは全然分からなかったり、枝葉の所だけしか分からなかったり、空理空論に終ったりしてしまいます。それではつまりませんから。例えばここに御神酒があるとしますか。その瓶を正面から見ると、月桂冠なら月桂冠とはっきり分かります。ところがそれを横から見たり、後から見たりしてご覧なさい。
月桂冠の木辺の所だけしか見えなかったり、土二つの所だけしか見えなかったりするでしょう。正面から見て初めて月桂冠と言う事が分かります。そこんところをひとつお互いの信心が、真正面からぶつかっておるかと言う事を検討してみたいと思う。私共は少し見当違いのような気がする。現代の金光教は真正面から見らずに、神様の願いとは全く違った、うらはらな所から見ろうとする。
ですからその証拠に神様が分からない。そこで今日、私は天地書附から頂くのですが、「おかげは和賀心にあり」とあります。和賀心におかげはありとは、言うてない。そこを今月今日で一心に頼めと言うておられる。『私が今朝からその事を頂くのです。そしたら心眼心耳に頂く事が、土井の久富日佐子さんがお届けに見えて、「先生のっぴきならない。どうにもならない事が起りました。どうぞ助けて下さい」と言うのです。人間の知恵、力ではどうにもならない、のっぴきならない事が起りました。
どうぞ先生助けて下さいと、こう言われる。信心が分かればおかげになると言うてきましたが、信心がなかな出来ない。それはどういう事かと言うと、正面きらないからです。正面きってと言う事は、どこまでもお道の信心は、おかげにあると言う事です。どうでもだから、おかげを先でなからないかんのです。おかげをまず願う事が正面なんだ。どうでもこうでも、一心に願わして頂くと言うおかげが必要なんだ。そこにです、金光教の信心と言うか、教えの全てがあるのです。
おかげを願うそこで教えがある。そこに和賀心がある。どうでも教えを頂かなきゃ。私共はここのところが一心に願われず。疎かになっておるように思う。正面におかげを出してくる。「おかげが頂きたい」。そんなら和賀心になれ。そんなら教えをよく頂け。そんなら本気で教えを行じよ。そこに和賀心がある。和賀心になる事を一心に願う。おかげは成程、和賀心になりゃ、ついてくるけれども。和賀心になる事を、先にもっていきよるから、実感の伴わない、いわゆる空理空論に終ってしまう』。
そこで思われる事なんですけれども。久富日佐子さんが、「どうにもならない。のっぴきならない問題が起きました。どうぞ助けて下さい」とこう言うてある。いわゆる今月今日で頼めなんです。私共はですね、日々刻々が実を言うたら、のっぴきならない。自分達の知恵やら力やらではどうにもならない場にあると言う事なんですよ。日々がである。今日だけは、私の行き方でいくと言う事がないと言う事です。
お参りせんでん拝まんでん、今日はやっていけると言う事がある筈はないと言う事です。実を言うたら、もうのっぴきならない事なんです。今日一日が、どうにも出来ない今日一日なんだ。だからどうぞ助けて下さいと言わにゃ出来んのです。今月今日頼まにゃおられんのである。それを自分の知恵やら力やらで、いけると言うような思い方が、既におかげが受けられない元なんだ。この事はお願いする。この事は自分でする。そういう事が出来ようはずがないて。
そこんところが悟れた時に、金光様の御信心が、いよいよ有難いと分かってくる。いわゆるあなたのおかげを頂かねば、今日只今が立ち行かんと言う事なんです。ところが、今日只今立ち行っておると、言う事に対して、心からお礼が申し上げれる事になるのです。日々が、あなたのおかげを頂かなければ。日々が、のっぴきならない事が起りました、と言う時と同じ実感をもって、おすがりしなきゃいかんのです。おかげを頂かなきゃならんこれが正面。おかげを受けたい。これが私共の願い。
信心が分かりたい。これが正面じゃない、おかげが受けたいと言うのが、正面きってのもの。だからそんなら和賀心になれ。その和賀心にならして頂かにゃならんと言われるところにです。お道の信心の教えの全てがある。そこから和賀心になり、和賀心である事が、どのように貴い有難い生き方かと言う事が分からしてもらうところから、おかげがそれに伴って来ると言うところまでいかにゃいけません。
それでいて、一分の隙もあっちゃならない。一厘の疎かな事もあっちゃならない。と言うのは私共生身を持っておる事ですから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からない。昨日の御理解じゃないですけれども。これが心の問題になってくると、もう浅ましい限り。こげな心でおかげの頂けるはずはない、と自分で思うくらい辟易とするくらい。けれども昨日の御理解頂きよると、このような私なのだけれども。せめて形の上の事なりともなさせてもらうと言うところに、おかげを受けられる。
そこに救いがある訳です。私は、おかげが頂きたいと言う一心、と和賀心になりたいと願わして頂く一心。これが相まっていかにゃいけんように思うのです。正面だからと言うて、おかげが頂きたいと言う事が一心であったらです。おかげにならんのです。神様の心というのは、一石二鳥と言うか、本当に氏子が、おかげを受けて。ただ信心が分かっただけで難儀苦労をしておったんでは、神様が喜びなさるはずはないもんねえ。おかげを受けて、くれて神様が喜んで下さるのです。
金光大神が喜んで下さるのです。氏子の喜びじゃと。だからおかげを受けて、そして和賀心になる事。だからおかげおと正面きって、おかげを受けてくれる事がです。神様の願いでもあり、又、私共が、心豊かに過ごさせて頂くと言う事も、神様の願いである。それには、まずおかげと言う、人間の幸せにつながるおかげと言うものを、まず氏子が受けてくれると言う事。それが神の願いである。私共が正面から見らずに、横から裏から信心を検討しておるところに、やはり空理空論的なものになってしまう。
いわゆる頭の信心に終ってしまう。そして本当の神様と言うものを、とうとう分からんなりに終ってしまう。例えて言うなら、神様が分からんと言うのはね。例えば親が子供を抱く姿ですね。もうその愛情の中に抱かれておる。可愛ゆうてたまらんと言う心の中に、抱かれておる。愛情もなんもない。それこそ木の丸太を抱いておるようなうだき方。私共は、信心させて頂いてからです。
本当に神様のそういう細やかな愛情の中に、抱かれてあると言う事を分からしてもらうところから、有難いなあと言う心が生れてくるのです。それを何か、品物でも持ったようなうだき方。それこそ木の根っ子でも抱いておるような、うだき方。そういう風にしか感じられない神様。天地の親神様のおふところの中にある。「天地は神のふところ」だと、理屈の上では分かっておっても、情感として実感として神様の懐の中に抱きかかえられおるという実感がないから、おかげが受けられないでしょうが。
「天地は神の懐」だと理屈の上では分っておっても、神様がこの様にして私を抱きかかえておって下さる。神様がこの様な愛情の中に私共を包んでおって下さる。そういう実感もない信心であるとするならです。それは実に無味乾燥であり、神様が空理空論に信心になるのです。その神様の「天地は神のふところ」であると言う実感が、私共の心の底から湧いて来る様な信心。それはまず私共がおかげを受けなければならん。
本当におかげの中に浸っておると言う、理屈で分かっただけじゃいけん。実際におかげを自分の心に、又は体に感じるおかげを受けなければいかん。恐れ入るなあ神様の働きは、こういう細やかなお働きの中に、おかげを受けておる。そこでおかげを願わなければならん。次に出されるものは、そんなら和賀心になれである。ですからその和賀心にならせて頂く為に教えの全てがある。あれもこれもとはいけんでも、例えばこうして朝参りをなさる方達は、朝の御理解が今日一日私を支えてくれると言う事になる。
その事を本気で行じられるところに、神様の温かい愛情の中に包まれておる体験が生れてくる。今月今日で頼め。突発的な困った事が起ったと、どうにも人間の知恵、力では出来なくなりましたと。どうぞ助けて下さいと、この実感がです。日々の中に出てくるおかげを頂かなきゃならん。「今月今日で一心に頼め」。頼まなければ立ち行かん私達。それは丁度、難儀な問題が突発的に起りましたけ時に、いろいろやってみましたけれども。人間の知恵や力ではどうにもなりません。
どうぞ先生よろしくお願いします、と言うそれなんです。人間の知恵、力じゃどうにも出来ません。どうぞお願いしますと言う実感がです。日々でなからなければならない。そこには、どう言う事になって参りますかね、そこにお任せしきった生活がある訳です。もうあんた自分の知恵、力じゃどうにも出来んと言よるじゃないか。そんなら私が言う通りにせな仕様がないでしょうが。私が言う通りにしなさい。おかげになるいわゆる親先生任せと言う事になってくる訳です。
難儀な問題の時だけがそれであってはならない。もう日々刻々がそれなんだ。日々刻々が先生どうにもならない問題が起りました。どうぞよろしゅうと言う、もんでなからなきゃならないと言う事。そしてその問題の解決のおかげを願うようにです。神様任せにならして頂いてこうあれ、こうせよと言う教えに従うと言うか、神様任せになると言うか、そこから頂けるのが和賀心だと思う。そして人間の生き方全てがです。いかに神様に身も心も委ね切ったところの生き方、在り方がどんなに有難い事かが分かる。
和賀心を保持していけれるおかげが受けられる。そこにはしかし厳しく、私一人では何一つ出来ない。あなたのおかげを頂かねば立ち行かないと言うところに、今月今日の頼みがある。今日の天地書附の解釈を頂きながら、今迄の天地書附の内容と、ちょっと違ったところ。今月今日に一心に頼む事は、私の心の上に和らぎ賀ぶ心を頂かして下さいと言う風に頂いてきたでしょう。ところが、そうじゃあない。それはね、例えば美しい事に終ってしまう事がある。
だからどうぞおかげを頂かせて下さいというのが正面なんだ。でなかったら正面きっての神様は分からない。まともな神様が分らないおかげを受けなければ。そのおかげを受ける為に和賀心になる。その為に教えの全てがある。同時に先生のっぴきならない問題が起りました。どうぞ助けて下さいと言う。その実感をもって、日々が今月今日で頼めれるものでなからなきゃならないと申しましたですねえ。
いわゆる神様の前に、もうどうにもなりませんよろしくお願いしますと、無条件降伏した姿が、日々でなからなければならないと言う事である。あなたのおかげを頂かねば立ち行かない。今月今日で頼む。そういうような、願い方と言うか在り方と言うか、この天地書附がです。大体そういうものであると言う事が、分からして頂いて、お互いのこれからの信心を進めて行かねばならんと思うのです。
ですからおかげは堂々と願わにゃいかん。からには潔く教えに準ずると言うか、いよいよ教えに忠実である事も又、覚悟してかからなければならない。本気で教えを身につけていこうとする心信心。そこから和賀心が約束される。神様を布か何かでかぶせて、その上から、撫でたり擦ったりするような感じで、神様を分かるのじゃなくて、神様がそのベールを取られる。神様の赤裸々な姿に直に触れられる為にです。今日の御理解を皆さん本気で頂かにゃいけんと思うのです。
私共の前に神様が、言わばベールを取って下さる。そこに神様の本当の姿と言うものを見る。どういう姿か、氏子信心しておかげを受けてくれよと。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言うそれなのである。信心はしておるけれども、おかげは受けてない。それはおかげに対するところの熱情と一様にです。和賀心になる事の熱情がバランスが取れてないところに、神様が喜んで下さるような結果にならない。私共が満足出来る様な結果にならないのではないかと言う事を思うてみなけりゃいけません。
私共が本気でひとつおかげを願わしてもろうて、そんならと言うて下さる和賀心になる事をです。いわゆる和賀心になる為に、教えの全てがあるのですから。その教えをですいよいよ本気で、忠実に成就させて頂こうと言うところにならなきゃいけない。しかも私共がいよいよ分からして頂かねばならない事はです。本当に天地は神のふところであると言う実感。本当に神様に抱きかかえられておるんだなあと言う日々。
そういう実感の元に、信心生活が出来なければならん。頭で分かっておる、天地は神のふところと言うだけでは、丁度他人を抱いておるようなもの、木の丸太を抱いておるようなもの。そういうひたひたとない神様ではいけない。神様がこのようにして分からして下さる。神様がこのようにして、おかげを下さろうとしておると言う。そこんところを頂かしてもらう。いわゆる神様と、血が通い合うと言うか、神様と、温かいものが交流すると、言うようなおかげを頂く為に、先ずおかげを受けなければならん。
おかげに向かうと言う事がお道の信心の正面きっての事。それを私共は、おかげと言わずに信心を正面きって、信心さえ分かればと絵に書いた餅のような実感のない事に、取り組んだのでは本当の神様が分からん。本当にそこに現ナマなら現ナマです。おかげを頂かしてもらって初めて、神様を感ずるのです。それには私共が本気で和賀心になる事に精進さしてもらうと言う事になる訳ですね。
どうぞ。